「なぜ生きるのか」「生きる意味はなにか」そう思ったことはありませんか?
もし、あなたが「一度も考えたことない」なら、とても恵まれた人生なのかもしれません。
でも、「生きる理由」を考えることは至極当たり前だと思っています。
この記事では以下の考え方を紹介します。
・なぜ生きる理由を自問していまうのか
・そして、自問することが正しいと言えるのか
なぜ人間は生きる理由を自問するのか
私が高校生くらいからずっと自分が生きる意味はなんなのかを考えてきました。
よくドラマ、アニメ、実社会で「生きがい」という言葉が多用されています。
- 「医者として人を救うのが生きている意義」
- 「接客業が私の天職だ」
- 「家族・恋人を幸せにするために生きている」
などなど。
これを見るたびに「自分の人生はなんて薄っぺらいのか」を悩んできました。
自分にも「これが生きる目的だ」というものがあればいいなとずっと思ってきました。
しかし、現在29歳になった今もこれだというものはありません。
また、結論として
・「これが私の生きる目的だ」なんて絶対的なものは必要ない
・ときどき「生きてて楽しい」と思えれば良い
・「生きる理由を探すのが人間」という存在であること
そもそも人間が生きるとは?
まず、二つの観点から考える必要があります。
- 生物的に生きていること
- 社会的に生きていること
この二つを考えると思考が少しクリアになるかと思います。
生物的に生きていること
例えば、筆者は猫を飼っていますが、猫は生きる意味を自問するでしょうか。
筆者の考えでは「自問しない」と思います。
ご飯があればお腹いっぱい食べて、寝たいときに寝ます。
猫にとって生きること自体が目的です
じゃあ人間ではなぜ「生きること」が目的にならないでしょうか。
その理由は
・人生の期間が既にわかりきっているから。
・人間は知的な生き物なので、寿命が60-90歳くらいだとわかっている
・周りの人もそうなので「生きることが当たり前になっている」
例えば、周りに若くして大病を患っている人やお亡くなりになった人がいれば
あなたは生きている自体に感謝するでしょう。
しかし、残念ながら医学の進歩もあり、どうしても「生きていること」をないがしろにしてしまいます。
社会的に生きていること
では、生物的に生きることを保証された人間はどんな所に生きる意味を見出すのか。
それは
人と人との関わりです(ここでは社会的と名付けます)
- 誰かに必要とされること
- 社会的に自分の存在が認知されること(承認欲求)
例えば、職人さんのような何かにこだわりを持っている人は、
一見すると人との関わりなんて必要なさそうですが、
「自分の作った包丁を誇りに思う」=他の人が作れないものを作っている
単独でやっていることも突き詰めれば、社会的な行為になってくるのです。
生きる理由を自問することは正しいのか
生きる理由を自問したことない人=常に社会的に欲求を満たされてきた人
そんな人はいないと思いますが、人生うまくいきすぎているのではないでしょうか。
しかし、多くの人は日々自問して、生きる理由を探しています。
そうすることで
- 人と関わりを持つようになる
- 新しいことに挑戦するし、新しい自分を発見できる
また、「これが生きる理由だ」と決めつけないほうが良いです。
なぜなら、その絶対的なものがなくなると生きる理由がなくなるからです。
また、絶対的なものがないから人間は自由に生きられるのではないでしょうか。
一日中寝ててもいいし、毎日寿司を食べてもいい。
時々に生きる目的が変わってもいい。
好きな人ができればその人に尽くすのでもいいでしょう。
筆者の生きる目的は?
今は(このブログを書いている時点)、お金を貯めて車を買いたいと思っています(笑)
あとは、結婚しているので家族が健康でいることですかね(月並み)
でも、時には仕事で達成感を感じて、生きてて良かったと思うことがあったりします。
そのときはそれを味わえば良い。今どうするかなんて決めなくていい。
また、将来ことを考えて生きると不安ばかりです。
「ノリ」で生きることが肝心!欲望に忠実に生きる!
最後に
いかがでしたか?
私もよく考えて悩む人生ですが、そのたびになにかしら成長してると思います。
この記事を読んだあなたも何かに悩んでいるはずです。
本当につらいときは、今考えず、一回よく寝て次の日考えましょう。
最後までお読みいただきありがとうございます。
2021年4月11日更新